友達

中2のとき、一緒に宿泊訓練に行った友達のことを可愛くてちょっぴり好きになってしまった。友達は私のことを尊敬してくれていて、大人しくて、誰とも会話しようともせず、読書ばかりしていた。私は彼女のそんなところがちょっぴり、実はものすごく好きだった。

 

宿泊訓練で一緒の班になったことが始まりだった。班を決めるときに揉めたりしないように、一緒の班になりたい同性の人を2人くらい紙に書いて、先生がそれを参考に班を作った。私は当時その友達とはよく喋ったことがなかったけれど、しっかりしていそうな人だからと彼女の名前を紙に書いて提出していた。友達も私の名前を紙に書いていた。お互いに約束していなかったけれど相思相愛みたいでそれがなんだか嬉しかった。

 

同じ班になって会話していくうちに彼女がとても面白い人だとわかった。でもやっぱり自分からは誰とも会話しようとはせず、いつも静かに本を読んでいた。

私はその姿を見て、自分も本を読めば彼女と会話できるかもしれないと考えた。私が読んでいた本の多くは彼女が好きな作家の作品で、それに加えて私は、よく登場人物に物静かで神秘的な女の子が登場する本を読んでいた。彼女も物静かで可愛かったから、本を読めば気持ちが分かるかもしれないと思った。面白い本を読んだら必ず彼女に教えて、本の貸し借りをした。こうして、私が彼女のために奮闘する生活が始まった。

 

宿泊訓練でキャンプファイヤーをしたとき、隣でずっと座っていた彼女の横顔を覚えている。

「👩ちゃんは好きな人っている?」

「いないよ。いるの?」

「私もいない。」

彼女はつまらなそうに呟いていた。私はその様子をじっと見つめていた。本人がそう言っても、きっと男の子たちが放っておかないだろうと思った。実際、可愛いと言ってた男子も大勢いた。そう考えたら何となく寂しい気持ちになった。可愛い子は遠くへ行ってしまう運命なのかと大袈裟だが不安がっていた。彼女の容姿について少しでも褒めたら私の知らないところへ行ってしまうんじゃないかと思ったので、「可愛いから、モテるでしょ」と冗談でも言えなかった。彼女のことを可愛いと思っているのは自分だけでいいと思った。このときから、私は彼女のことがだいぶ好きだったのではないかと思う。

 

私は彼女に一生懸命話しかけたり、たまに映画を見に行って遊んだり、本を貸し借りしたり、全然話してくれないから自分の好きな適当なことを喋ったり、周りで面白いことをして騒いだりして、彼女の意識を私に向けようとした。ごくたまに、私が廊下を歩いていると、彼女が走って追いつき、私の肩を叩いて呼んでくれたこともあった。心臓が跳ねるほど嬉しかったけれど、本人には悟られないように気をつけていた。

外では気づかない間に彼女の話ばかりしていた。同じ保育園に通っていた長い付き合いで、同じ部活のメンバーだった幼馴染に彼女が好きなことが少しだけバレてからかわれたりした。

幼馴染が実は私と彼女が仲良くなっているのが気に入らなかったらしかったことと、もうその幼馴染とは会話もしていないし連絡先も知らないこととはまた別の話だ。

 

中3になって受験が終わり、私と彼女は同じ高校を受験することとなった。そう言えば少しカッコつけたかっただけに普通科よりレベルが少し高い理数科を選択した気がしないでもない。彼女は普通科だった。なんだかんだべったり2人でいたけれど高校は同じだが若干お別れとなった。最後に連絡先を交換した。

 

 

 

 

お別れと思いきや高校でさらに私達は距離が近くなった。私と彼女ともう1人、同じ中学だけど中学ではまともに1回も喋ったことがない友達と何故か3人で意気投合し、近所のもんじゃ焼きを食べたりLINEで雑談する仲になった。ここまでくるともう彼女への怪しい感じのした好きという感情は、新鮮な高校のクラスメイトとともにだんだんと薄れていった。

 

彼女に対して抱いた気持ちは果たして一瞬の気の迷いだったのかは分からない。でも、あのときの私について彼女は「救われていた」と話してくれた。彼女は内心、クラスで気軽に話せる人がいなくて寂しかったらしい。

私は彼女のことを考えているようで自分のことばかり考えていて、ただ仲良くなりたかっただけだ。彼女を何かから救うなど微塵も思っていなかったが、結果的にそれが彼女を救うことになっていたらしい。

今でも彼女と友達と3人で遊んだり集まったり飲んだりする。彼女はもう神秘的には見えない。ごく普通の可愛い女の子で、彼氏が出来て悩みながら奔走もする。読書もあまりしないし、深夜アニメをよく見ている。私が彼女の下宿先まで遊びに行った時は駅まで白いプリウスに乗って迎えに来てくれる贅沢な奴だ。「👩ちゃんは命の恩人」と言われたときそれは大袈裟だよと笑って返したけど、もしかしてもしかすると、人間の多くは自分のことばっかり考えているのが本当は普通で、人と会話して救われたり元気になったりするのは、たまたまそのおこぼれをもらっているからなんじゃないかな、とふと思った。そして、彼女のために楽しませようとあれこれ考えていた自分を懐かしく思う。今はたとえ誰かが好きでも、その人の好きな物まで好きになったりはできなくなってしまった。必死に話し掛ける勇気も自信もない。人に自分の好きな物を押し付け、感情に身を任せ、静かに耐え忍ぶだけだ。

 

今では私にとって彼女は一緒にいて安心する人になった。それっていいことなのかな。ずっとずっと、ドキドキしたほうが楽しくて魅力的に見えるようにも思える。でも、私達には確かに友情が残された。激しい「好き」は永遠に続かないが、「友情」は永遠に続くかもしれない。ずっとずっと、このぐらいふんわりとした仲が続いてくれたらいい。ずっと一緒にはいないけど、たまに帰ってきたら私たちはまた元の友達に戻れる。そのときわざわざ面白い人になって、面白い話をしなくてもいいんだ。

高校のそばのいつものもんじゃ焼き屋に行った。帰る前、彼女はこう言った。

「おばあちゃんになっても私達、こうやってもんじゃ焼きを食べようね」

まるで小説のセリフみたいで綺麗だった。

必ず実現させよう。どんなに些細な理由だとしても。あなたが望んでいる限り、今の私は救われているから。