時には誰かを

授業中に教授が映画の話をしていた。

「この間、嫁さんと一緒に映画を見に行ってね」と。

そのとき私も映画に見に行ったことを思い出していた。

 

 

その映画は見た時少々退屈はしたけど、別に面白くない映画ではなかった。私が映画をあまり観ないと言っていたことを気にしてくれていた当時の恋人は、私に「映画どうだった?面白かった?」と私の手を握りながら尋ねた。

少々気取っていた私は「うーん、まあ、いいんじゃないの。普通かな。」と答えた。

彼は「えぇ…そっかあ。そうかぁ。」と答えたような気がする。彼は映画が大好きだった。「映画が観たいなあ」という度に私は「じゃあ観に行ってくれば?」と答えていたのを思い出す。秋風よりも冷たかった。この日遊んで以来、あまり会わなくなって別れた。

 

全然大した話じゃないけど、もしあの時私が「面白かった。また一緒に映画観に行こうね。」と言っていたら。

もちろん、その一言だけで何もかも決まった訳では無い。

でも、もしあの時私がそう言えるような人間だったら。

 

 

あの時こうしたら良かった、もっとこんなことが言えていたら、もっと頑張っていたら、この試合に勝っていたら、今よりも明るい、違う未来があったのではないか。たまに、そんなことを考える。

 

この話を誰かにすれば、そこから始まる恋や友情もあったかもしれない。

でも、そんなことすらしたくない。この記憶もいつかは無くなってしまう。だからここに残しておく。

 

今年がもうすぐ終わる。

黄色い車

f:id:kaowwwwww:20190814173726j:image

私は黄色い車が好きではない。

 

小学生のときに読んだ小説に出てきた自閉症の少年が「黄色い車を3台見た日は悪い事が起こる日、赤い車を3台見た日はいい事が起こる日」と言っていた。だから黄色い車にはあまりいいイメージがない。

 

もうひとつ、同じようなきっかけで良いイメージがなくなってしまったことがもうひとつある。

 

小学生の頃に嵐がとても大好きで、よく観ていた「ひみつの嵐ちゃん!」という番組があった。嵐のメンバーが理想のデートを話して、女性陣がモテ嵐かダメ嵐かを判定するコーナーがあったのだが、そのとき翔くんが「彼女ができたら映画館デートがしたい」と言っていた。何故か女性陣からもの凄い非難の嵐だった。だから映画館デートにもいいイメージがない。

 

もちろんそれぞれにはちゃんとした理由がある。まず黄色い車だが、自閉症の少年が出てくる話はアメリカ人の作者が書いたものだった。黄色を英語にすると「Yellow」。Yellowはあまりいい意味で使われないことがある。

映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー3」では、主人公のマーティが

'Are you yellow?'(あんたは臆病者か?)

と言われ、

''Nobody calls me yellow"(僕のことを臆病者だと誰にも言わせない!)

とブチギレるシーンがある。調べるとyellowには「臆病者、卑怯者」という意味があった。だから自閉症の少年は黄色い車を見る日は悪い事が起きると言ったのだ、と私は解釈した。

f:id:kaowwwwww:20190814173806j:image

 

また、翔くんが女性陣から非難を浴びたことも理由があって、「映画を観ているだけで自分は彼女のことを楽しませようとしていない」という意見があった。そのときに私は、自分が友達を誘って映画に行ったことや、従兄弟と一緒に部屋でテレビを観ていたら母親に「遊んであげなさい」と怒られたことを思い出して、「確かに楽しそうではなかったな」と反省した。

 

黄色い車も映画館デートも、別に気にするほど大した話ではない。それは私にもよくわかることだ。そうは言っても小学生ぐらいのときに植え付けられてしまった誰かの勝手な価値観を自分の中で納得してしまって、それがなかなか頭を離れてくれない。幼い頃何の理由もなしに言われたことは思い出せないが、小学生になってある程度経験や知識を積んできた年頃だから納得できてしまったのだ。無意識のうちに、「黄色い車か…よく買う勇気があるな」とか「観たい映画があるけど、友達や彼氏を誘うのは如何なものか」と今でも思ってしまう。これからも、黄色い車を購入して乗ったりはしないだろうし、映画館デートなど、ただ観るだけのイベントに自分から誘ったりはしないだろう。そして、その偏見は自分の選択肢を狭める結果になっている。

 

だからといって、本を読まなければよかった、テレビを見なければよかったと思うことでもない。ある一方では害をもたらすが、ある一方では得になる。私はその本を読んで小学生ながらにして素数のことを知った。また、その番組を見て、嫌な事を忘れたり、友達の会話に混ざったりして、新しい友達を作ることもできた。悪い事ばっかりでもない。人格や好みが形成されるというのは、こういうことなんだろうな。とただただ思う。

ラーメン屋

ラーメン屋に行った。

 

そのとき私は年が明けてから1回もラーメンを食べていなかった。もうすぐ2月に差し掛かり、大学ではテスト期間に入りそうだった。

資金源に母親と祖母を誘った。どこに行くの?と聞かれたので、食べログで検索し、近所にあるまだ行ったことのない店を選んだ。私たちは車を走らせ、ラーメン屋に向かった。私たちの住んでいる街の外れにあるラーメン屋だった。

 

15分ほどして店に着いた。比較的車通りが多い道沿いにあるのに、駐車場も店も小さくて車を停めるのに一苦労だった。私たちは車を降りて入り口を探した。入り口の前には何故かテーブルが置いてあって、老人が4人ぐらいで談笑していた。何となく違和感を覚えた。

「入り口こっちじゃないよ、道路の方だよ」と言われ、自分たちが入り口だと思っていた場所は勝手口だったことに気が付いた。

 

言われるがまま店に入った。古い油の酸化したような、イメージとしては人がたくさん使っているのに洗ってない風呂みたいな、垢を煮たみたいな臭いがした。行ってみればわかる。私はこの時点で確信した。ここのラーメン屋、絶対不味い。

入った瞬間引き返そうかと思った。しかしながら店内には誰一人として客がいない。入った瞬間出ていくのは失礼では無いのか。さっきの老人に怪しまれるのでは。自分の臆病さが本能的な危険予知に勝ってしまう。ぞろぞろと3人でカウンター席に座る。時間とともに食欲は減退していく。さっきまで腹ぺこだったのが嘘みたいだ。店主は50代ぐらいの女性で、若々しく見えた。隣で老人が皿をゆっくり洗っていた。店主の父親だろうか。なんだか老人が多い店だ。「柳麺3つ」と言うと、徐に麺をとって茹で始めた。手際は良い感じだった。

水はセルフサービスで、祖母が汲んで持ってきた。コップが薄汚れていて、口を付けることを躊躇した。よく考えてみたらステンレスのテーブルもベタベタだった。私たちは大した会話もせず、不安な面持ちで店主を見つめていた。「柳麺って書いてラーメンって読むんだね」とか、しょうもない話をした。

 

柳麺(ラーメン)が出てきた。割り箸ではない箸が置いてあってそれを使った。多分これも汚れているだろうし、嫌な感じがした。こんなときに限って髪を結ぶゴムを忘れた。髪を切ったばかりなのに、最悪だ。

ラーメンの写真を撮り、麺をすする。麺が柔らかい。というより茹ですぎている。普通の茹ですぎた麺なのにやけに不味く感じる。これも店が汚くて臭いせいだろうか。レンゲも渡されたが、なんだか汚れがこびりついていてとても使えなかった。

私たちは麺だけを無心で啜った。早くこの場を立ち去りたかった。

老人が皿を洗っていて、泡が飛んでぽちょん、と母のスープの中に入った。母は「ヒッ」と誰かに聞こえるか聞こえないかくらいの悲鳴をあげた。母はこれ以上スープに手をつけなかった。私も麺しか食べなかった。祖母は残した。祖母に水を飲むか尋ねられたが、私はいらない、と答えた。気付いたらスープの中に自分の髪が入ってしまっていたらしく髪の先がぬるっとしていた。急に泣きたくなった。踏んだり蹴ったりだった。

あっという間に私たちは店を出た。母は店の看板を見上げて、「うーん、イマイチ」と言った。私にとってはイマイチどころの騒ぎではなかった。多分これから二度と行かないし、同じ名前の店にも入らないだろう。今までに無いほど店の雰囲気が悪かった。今度からは恐れずに、店が臭かったら食べるのをやめようと思う。もう雑誌に乗ってるような有名で新しい店にしか行かない。

 

満足できなかった私たちは帰りにサーティワンアイスクリームのポッピングシャワーを食べた。口は満足したけど髪にこびり付いた油の臭いはいつまでたっても消えなかったから、家に帰ってハンドソープで洗った。触るとキシキシとした。油がしっかりと落ちたことを確認して、私はほくそ笑んだ。髪には良くないけど、ハンドソープは世界一いい匂いだった。

人の死に関わるもの全般が怖い。

 

友達の家にあった仏壇の遺影が怖かった。じっと見つめていたら友達が、「あれは戦争で死んじゃった人なんだよ」と教えてくれた。もっと怖くなった。戦争で亡くなった人の話も、死者の人数も恐ろしかった。小学生のとき戦争について調べたとき、遺体が無造作に並べてある写真を見た。古い本でモザイクがかかっていなかった。幾つか足がなかったり手がない人もいた。しばらく具合が悪くなって、友達のそばを離れられなくなった。人の死に触れたときは死から遠い生きている人と触れ合うのがいちばんいい。

 

東日本大震災の日から数日経った夜、暗闇で寝ていたら「死亡」という文字が襲い掛かってきた。1度や2度ではない。暫く1人で寝ることが出来なくなった。1人の時は暗い階段を登るときも後ろにその2文字が迫っているような気がした。その言葉だけ他と違って不気味な空気を帯びているように思えるのだ。

 

大好きなアイドルが亡くなったり、先輩が亡くなったり、友達のお兄さんが亡くなったり、はたまた知らない誰かでも人身事故の話だったり、最近色々な場面で亡くなった人の話をきくようになった。自分が生前からよく知っていた人ほど亡くなると怖いと感じられる。怖いと感じる度に、亡くなった方に申し訳なく思う。この恐ろしさはどこから来るんだろう。現実と死とのギャップが激しいほど、私は受け入れられないのだろうか。

 

私はよく、「死にたい」と軽々しく口にする。

本当は良くないことかもしれない。良くないことだと分かっている。だけど、その言葉は死がこの上なく恐ろしいものだと思う気持ちを少し和らげてくれる。死ぬことなんて実は大したことない。残念ではあったけど、ちゃんと弔うならなんてことはない。私の知っている人たちは死んだぐらいではずっと変わらないんだと。死んだからって急に私を殺しに来たりなんかはしないのだと。

あくまでも、人の死を軽視しているという話ではない。自分が平静に生きていくために、私は「死にたい」と呟く。

生きるために、「死にたい」と言う。

おかしなことかもしれない。死について、もう少し柔らかく考えさせてほしい。余りにも厳格だと、誰かが死ぬ度にストレスになってしまう。

とにかく、死について怖がっていることは分かってほしい。そして、誰か1人くらいはこの気持ちに共感してくれると思う。

 

そして誰かそろそろ私を葬式ではなくて結婚式に呼んでほしい。花嫁としてでもいい。生きている間に楽しい事をしよう。難しいことはいいから、美味しいものを一緒に食べようよ。

もう一度、あの夏に。

まだあの時からほんのわずかしか経っていないけれど。駅からの遠い道のりを、老舗の中華料理店を、ラーメン屋を、夜のコンビニを、余りのパンを、2人で寄り添って座った人のいない浜辺を、古びたベッドを、喫茶店で分け合ったアイスティーフロートを、商店街の唐揚げを、目を閉じた睫毛を、寄せあった頬を、夏が来る度にこれから思い出すのだろう。そこで話した些細な会話も、体温も、一生忘れることはない。もう一度だけ、短かったあの夏に。せめてもう一度だけ、2人であの7月に。

嫌いな後輩

高校時代の頃を思い出したので少し話をする。

 

 

高校時代の私は人生でいちばん、それはそれは性格が悪かった。自分のことしか考えていなくて、周りの人が我慢して付き合ってくれていなかったら、きっとひとりぼっちだっただろう。

私は剣道部に所属していた。同学年に女子が誰もいなかったから、4人の女子の先輩たちに可愛がられ、初心者だったからビシバシシバかれながら何とか練習を重ねていた。女子がちょうど5人だったから、団体戦にも個人戦にも1年生のときから出場することができていた。

何だかんだで1年生の時期は終わり、2年になって7人の後輩が入部してきた。

 

その中の1人が、私が大嫌いな後輩だった。後輩は背が高くてすらっとした綺麗な子だった。

小学生のころ器械体操をやっていたとき、その後輩と知り合った。後輩は私の後をたまについてきて「👩ちゃん、👩ちゃん」と呼んで私のヒジをよく触っていた。

実は高校1年の頃にも会っていて、私たちの高校の道場に何度か練習に来ていた。その時後輩は私と一体一で稽古をした後、「私は絶対ここの剣道部に入ります!」と言っていた。後輩ができるのはとても嬉しかったけど、あまり人数が多く来てしまうと自分が試合に出られなくなってしまうのではないかという危惧もあった。後輩はかわいいから、先輩に可愛がられながらぬくぬくと生きてきた私は、なんとなく自分の居場所を取られるような気がした。

 

後輩が入部した。後輩の顔が広かったせいで後輩以外に友達が6人も入ってきた。全員中学では県大会常連の強者ばかりで、正直負けそうで、練習では必死に弱いところを隠して強い先輩を演じた。後輩たちは久しく剣道をやっていなかったからか、普通に勝つことができていた。先輩たちは後輩をかわいいかわいいと言っていたが、👩ちゃんも入ってくれて本当にありがとうね、良かったよねたくさん入部してくれて、と私にも優しくしてくださった。後輩は私に対して呼び方以外は変わらず「👩先輩、👩先輩」と私のあとをついてきて話しかけてきた。周りの先輩にも「私👩先輩のこと昔から知ってるんです!」と言っているようだった。鬱陶しいな、と勝手ながら思った。

 

後輩は剣道がそんなに上手い訳ではなかったせいか、メンバーには選ばれなかった。後輩はそれでも役割をきちんとこなし、部員から信頼されていた。部長も、何かを頼む時は真っ先にその後輩に頼るようだった。私はメンバーに選ばれたが、メンバーの中ではいちばん下手な次鋒だったから、試合にどうしても出たい後輩はそのポジションを狙い始めた。そこから私は、後輩を部活以外では優しく接しながらも目の敵にしていった。

 

試合がある度に直前は後輩7人と私1人で試合のメンバーを決めるために戦っていた。後輩は段々と剣道の感覚を取り戻し、私はなんとか3人負かしてメンバーに食いこんだ。後輩は私に負けたときは誰に負けるよりも悔しそうな顔をしているように見えた。私は後輩をちらとみた。後輩は私に負けても、部活が終わったらにこやかに笑っていた。終わったらすぐに面をつけて、自主練習をし始めた。

なんとなく稽古中後輩の隣に立ったとき、後輩が、「私、チームに入りたいなあ」と呟いた。気持ちは痛い程わかったが、私も譲る訳には行かなかった。後輩に私は何も返事をしなかった。返事ができなかった。

 

後輩が冬のある日、足にサポーターを付けてくるようになった。私がどうしたの、と尋ねると「足が痛みます」と答えた。かわいそうに、と思った。少しだけ、心の奥底でライバルが減って良かったと思った。

後輩はその日の部活終わりに、私と同級生の男子部員と会話していた。後輩がしょんぼりした様子で、男子部員が慰めていたから「男に媚びてんのか」と一瞬眉をひそめた。後輩と男子部員が仲良くなるのをあまり面白く思っていなかった私は2人の話に割って入ろうかと思ったが、そんな勇気も出ずその場を立ち去った。

 

練習を重ねていたある日、私が帰ろうとして自転車置き場まで行ったときだった。後輩が「👩先輩、」と、私を呼び止めた。

「👩先輩、私、あと半年くらい剣道はやらないほうがいいって言われて」

「え…そうなの」

そんなに酷い怪我だとは知らなかった。

「👩先輩も男子の先輩も、あとちょっとで引退じゃないですか、それに間に合わなくて、本当はもっと練習したかったのに、」

後輩が泣き出した。

「ごめんなさい、私は剣道やりたいのに!どうすればいいんでしょう、先輩たちと剣道したいのに…」

ああ、こういうところが嫌いなんだよ。悲劇のヒロインじゃないんだから。

でもここには私しかいない。私がどんなに冷たく接しても、どんなに負けても、決して文句も言わず黙って部活終わりにも練習するところを見ている。それが足を痛める原因でもあった。私が後輩のことをどうして嫌いなのかわかった。一緒にいると自分が情けなく思えるからだ。ただの嫉妬だ。自分がどれだけ楽をしているかを思い知ってしまうからだ。私は後輩に何も言えなかった。頑張ってきたのに怪我をした人にかける言葉が分からなかった。後輩の肩をさすった。「治ると信じて、無理しないでゆっくりやっていこう」そう言うしかなかった。後輩が媚びていると思った自分を情けないと思った。

 

後輩は結局最後まで試合のメンバーに選ばれなかった。後輩は私に「頑張ってくださいね、私もなるべく先輩やメンバーの足を引っ張らないように頑張ります」と笑顔で言った。どんなに私が陰険でも、後輩はやっぱり優しい。まったくもって純粋な心の持ち主で、でもやっぱり内心では馬鹿にされていそうで、嫌いだ。

 

私は結局、団体戦で県大会に行けなかった。

毎年行っていたけれど、結果が振るわなかった。そのせいで県大会と日が重なる学祭に参加することができた。後日後輩とサイゼリヤに2人で行ったとき、私は後輩に「私は早々引退してさ、みんなは早く練習に取り組めるし、結果オーライだったよね」とヘラヘラと笑いながら言ったら、後輩は「いや、先輩は県大会にちゃんと行くべきだったと思います。私達2年はもっと頑張らなくてはいけなかったんです」と大真面目に言った。嘘でも大真面目に言ってくれるなんて、本当にいい奴で嫌いだ。

後輩は大学生になった今でも私に誕生日の動画をLINEで届けてくれたり、ご飯に誘ってくれたりする。先輩だからってそこまでしてくれなくてもいい。でもやっぱりちょっぴり嬉しくて、ニヤつきながら動画を観る。高校のときにキツく当たってしまったことをその度に申し訳なく思う。何故こんなに性格の悪い先輩に対して喜ばせようとしてくるのか、私にはわからない。実はお金目当てではないのか。後輩はたまに食事に誘ってくれるが、日程が合わず未だに実現できていない。お金目当てでもいい。今度は私から誘おう。

私には勿体ない。頭も良くて、可愛くて、気が利いて、明るくて、心が綺麗で。駄目な自分とはまるっきり正反対で。

 

本当に大嫌いな後輩だ。